吉本ばなな『すばらしい日々』、と。
やけに病院通いが続いた。
娘が胃腸炎になり、
息子が鼻水を垂らして発熱、
それからインフルエンザの予防接種も…。
スケジュールもストレスも積み上がってるうえに、
仕事を2日も休まなければならないことにも疲れのため息が出る。
病院の待ち時間つぶしに選んだのは、
吉本ばななのエッセイ『すばらしい日々』だった。
病院に連れていくならエッセイと決めている。
さっくり読めて、いつでも中断できるのがエッセイ集のいいところ。
ただ、血痕付き手帳のインパクトのある表紙が、病院向きとは思えないけれど。
手帳についた血痕は絵具のように茶色く変色し、開いたページには意味不明のぐにゃぐにゃ文字。
それは、目が見えない父が毎日書き綴った、血糖値の記録である。
たとえ書けていなくても、目が見えなくて読めなくても、他のだれにも読めなくても。
どんな教えよりもはっきりと、父が最後まであきらめなかったことが伝わってきて、泣けてきた。 このように無益であっても、人は生き続ける。記録し続ける。(P73)
雑誌『MISS』で連載されていた十二篇に、書き下ろし十二篇を加えたこのエッセイ集は、吉本ばななが父を看取り、母を看取り、子どもを育てていく毎日の記録である。
忘れそうになるけれど、わたしたちの毎日は「生」の中にあって、いつも「死」とくっつきあっている。
いつもそんなことを意識しすぎていたら、そりゃあ、生きづらい。
だから忘れがちでいいのだと思う。
限りあるからこそ愛おしいのだと気づかされる瞬間は、すぐとなりにいつもあるのだ。
子犬とただ遊ぶ時、
苦手なテニスをならってみようと思った時、
旅先で、
だんごやさんの前で、
カメラのシャッターを切る瞬間、
亡くなった父の手帳をめくる時、
いつの間にか大きく育ったびわの葉を見上げる時。
あぁ、そうだ。 生きるってなにかに困ったりすることじゃなかったと、
だれかのエッセイを読んで気付かされたりする瞬間。