青りんごの本棚

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乙一『失はれる物語』~ないはずのものを存在させる言葉

古本屋さんで、お気に入りの本を見つけると手に取らずにはいられない。古い友人に出会った時のように、というよりも、朝出かけて行ったはずの家族にひょんなところで出会ってしまったような気持ちになるのだ。

「あっ!そこにいたんだね」と、本棚からゆっくりと本を抜き出す。雨の日に傘をさすようにごく自然に、慣れた手つきでページをめくる。

わたしは知っている。この子はいまどきの女子高生には珍しく、携帯電話をもっていない。その上、カラオケにも行かないし、プリクラを撮ったこともない。

本当は、携帯電話も持ちたいし、カラオケにも、プリクラだって撮りたい。でも、携帯電話で話す人もいなければ、一緒にカラオケやプリクラに行くような人などいないのだ。そんな彼女が、自分だけの特別な携帯電話を手にすることになる。

それは「手に持つ」ことはできない、想像の中だけに存在する理想の携帯電話。意外に軽く手にすんなりとなじむ白い流線型のボディー、着信音は映画『バクダッド・カフェ』で流れるあのきれいな曲にしよう。

いつも頭の中に思い浮かべていたその携帯電話から、ある日突然、着信音が響く。鳴るはずのない携帯電話の向こうから、知らない男の子の声が聞こえてきた。

彼もまた"存在しない"携帯電話から、語りかけているという。

世の中には、起こり得ないはずのことがたくさん存在する。

すでに起こってしまったはずのできごとに、「ありえない」という言葉で驚きを表現するわたしたちにとっては、それは何の不思議でもない出来事だろう。

「ありえない」は、言葉の世界では「ありえる」。

 

詩人・長田弘さんは『なつかしい時間』の中で言葉は「ないものについていうことができる言葉がある」と言う。

ないもの、ここにないもの、どこにもないもの、誰も見たことのないもの、見えないもの、そういうものについて言うことができる言葉

                  長田弘『なつかしい時間』より

 

それでは作家とは、ないことを描き出すことのできる魔術師のような存在といえるかもしれない。長田さんの伝えようとした言葉の役割とは少し違うだろうが、わたしのなかに浮かんだのは乙一さんの『失はれる物語』だった。

 

この短編集は、まさに”ないもの"ばかりが出てくる。

「Calling You」では、空想の携帯電話で時空を超えた会話を成立させ、「失はれる物語」では、その指先の感覚以外に妻の存在はない。

もういないはずの女と暮らす「しあわせは子猫のかたち」。

「マリアの指」では、あるはずの指があるはずのないことを証明する。

 

ことばは、ないものをいとも簡単に”存在させる”。言葉を並べあげれば、存在しないはずのうその彼女を作りあげることだって可能なのだ。

「ウソカノ」の中で、主人公は他校に通う彼女がいる。名前は安藤夏。趣味はギターで水泳部。英会話スクールに通い、ミスタードーナツのホームカットとあんぱんが好きな女の子。ある日、彼女の制服のスカートが電車のドアに挟まり、見かねた僕がドアをこじ開けた。駅員には怒られたが、彼女は僕と出会った。

先ほども言ったが、彼女はこの実世界では存在しない。異世界にも存在しないことを彼だって知っている。どこにもいない、誰も見たことのない女の子だが、言葉にした時点ですでにここに存在しているのだ。

ないはずのものを、ことばが存在させている。

 

「傷」は、他者の体の傷を自分の体に移すことのできる不思議な力を持つ少年・アサトの物語。他者の痛みを自分の痛みに変える。"痛み"は不思議だ。確かに存在するのに、目で確かめることができない。えぐられた大きな傷跡の痛みをどれほど共有したいと願っても、その痛みはその人だけのものでしかない。その痛みを他者に伝えるすべをわたしたちは持ち合わせていない。少年のように、全く同じ傷を負うことだけが痛みを共有するすべなのだろうか。

 

存在しないはずのものを、目では見えない、手に触れることのできないものを、わたしたちは目の前にあるように思い浮かべ、その痛みさえも感じとり、その感覚をなんども取り出し味わうことができる。時間に似ている言葉がそれを可能にする。

言葉によって与えられ、物語は失われていくが、私たちの中にうまく言葉にできない余韻を残す。

 

 古本屋で見つけたこの本を、わたしは買って帰る。家に、もう1冊あるのは知っていたが。

 

乙一さんの初読みにおすすめ。初期の代表作品や映画化された短編、おまけの書下ろしなど乙一らしい作品がぎゅっとつまった短編集は、まるで乙一のプリン・ア・ラ・モード。ほかのお気に入りと同じように、本棚には単行本・文庫本をストックしています。

新装版が出て、カバーの表紙が変わりました。単行本の立体感のあるカバーがお気に入りです。どこかで単行本を見つけたら、きっとまた買ってしまうはず。